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但馬牛のふるさと
Roots of Tajima Beef
今から約1,200年前に編纂された『続日本記』に「但馬牛、耕耘、輓用、食用に適す。但馬は古来牛を愛育し、良畜を産す」と書かれ、約 700年前の『国牛十図』には「骨ほそく宍かたく 皮うすく腰背まろし 角つめことにかたく はなの孔ひろし 逸物おほし」と記述されています。中世では豊臣秀吉が大阪城築城の際に全国から牛を徴発したが、但馬牛の役能力を最優秀と認め、特権を与えたとされています。いつ頃から牛を飼い始めたのかは明らかではありませんが、但馬牛に関しては、そのルーツを記述した文献が多く残されており、牛籍、科学的根拠、地理的区分が各年代において細かく残されております。文武天皇(701年)に牛を貢いだという記録があります。
 
●なぜこの地に但馬牛が育ったのか
   
市町村合併により現在の新温泉町と香美町にまたがるこの地域が但馬地方のなかでも際立つことは、険しい地形と、豪雪に見舞われる冬季の厳しい寒さ、日本海の塩分を多く含んだ強い北風が雪解けて大地にしみこんでいる土壌の性質などがあります(十分な塩分は牛の生体にとっては欠かせない要素です)。しかも但馬地方の夏は昼と夜の気温差が大きくて夜露が降りるために、軟らかい牧草に恵まれ、山草には肉牛が育つのに必要な薬草が含まれています。水は硬水でこの草とミネラルの多い水をたっぷり与えられ、また平地が少なく、険しい地形で寸断されたこの地域では、その地形要因と冬の豪雪のために、生活文化を周辺地域から遮断され、外部から新しい生活環境や産業を、最後まで拒む天然の要塞となりました。これが但馬牛の原種が奇跡的に生き延びた最大の理由です。狭く小さな田んぼで仕事をさせるには大きな牛では都合が悪く、より小さな牛を選抜・淘汰してきました。同じ動物なら筋繊維の数も同じであり、体が小さく締まりがよいほど筋繊維も細かくなります。これがまれに見る霜降り肉の誕生の理由です。このように但馬地方では何百年もかけて牛の改良が行われました。これは世界的にも例がないことです。

但馬の牛飼いは、「名牛は100年かけて作る」ということをいいます。いまある但馬牛のブランドは、100年以上も但馬の畜産家が愛情をかけて牛を育てた賜物であります。日本海に面し、平野が少ない山国であるため、狭い棚田で小回り良く働けるよう、小柄で体が引き締まった但馬牛が活躍しました。この地域の畜産農家は、但馬牛を険しく狭い農耕地の重要な労働力として、生活共同体のように育て、子牛を繁殖させました。一年に一度生まれる子牛は農家の経済に大きな恩恵をもたらした。まさに農家にとっては宝であり、母屋玄関横のマヤで家族同様大切に飼育されてきました。

 
● 但馬牛ものがたり(蔓(つる)牛の誕生)
   
松阪牛、前沢牛、米沢牛、佐賀牛をはじめ、日本で生産される黒毛和牛の98%のルーツといわれている但馬牛ですが、そのブランドと品質はどのように生まれ、維持されてきたのでしょうか。

蔓(つる)牛の誕生

但馬牛の奇跡的とも言えるまろやかな風味と、融点の低い、文字通りとろけるような霜降りを実現している但馬牛ですが、これはなにも自然発生的にできたのではありません。山深い但馬の地で、愛情豊かに育てられた牛たちが、家族同様に育ててくれた但馬の畜産農家たちの愛情物語があるのです。

但馬地方の渓谷を中心に飼育されてきた優秀牛の系統を「つる牛」と言い、現在では3系統のみ100年以上の歴史を経て残っています。
・あつたづる・・旧美方郡美方町(香美町)
・ふきづる・・旧美方郡温泉町(新温泉町)
・よしづる・・旧城崎郡香住町(香美町)

前田周助(1798-1872)は、同じ美方郡の美方町小代に農家の長男として生まれ、成長するにつれて、ますます牛を愛し、鑑識眼に優れていました。良牛小代牛の血統を固定するために、100年に1頭とわれる良牛、同じく美方郡の村岡町の雌牛を手に入れました。飼料の吟味から一切の手入れ、繁殖に力を注ぎ、年々良い子牛が産まれるようになり、周助の生み出した牛は、「周助蔓」といわれ、今の「但馬牛」の系統の基礎となりました。

万延元年(1860)年ごろに照来にやってきた子牛の十代目にあたる優れた母牛が大正14年、照来7つの村の一つ“中辻”の西よねさん方に生まれました。ふきが3歳とのき、丹土村の中井利造さんが買い取り愛育、4歳で初産をしてから14年間にメス七頭、オス4頭を生み、その子孫である雄牛「李中」は但馬牛の名牛の系統を作りました。

この純血種が松阪牛、前沢牛、米沢牛、佐賀牛をはじめ、日本で生産される黒毛和牛の98%のルーツといわれております。日本のほとんどの原産地ブランドや伝統が明確な定義が難しくなっているにもかかわらず、ブランドと品質、その血統および生産地のさまざまな条件など、但馬牛ほど、明らかに原産地とその特性が判明されているものも珍しいといえます。

リンク なぜ但馬のこの地が牛の生育にいいのか

 
● 反抗してでも但馬牛を守り抜く
   
但馬牛の血統管理の歴史は波乱の連続であり、それは政府や県のすすめる同化政策との戦いでした。
明治18年に但馬牛家畜商同業組合が温泉町湯村に設立された際に、副幹事となった旗谷与三郎氏は、紀泉の牛商が、但馬地方が消費地から遠いのでより近いところで牛市を移そうとした際に、風土、気候の牛畜に及ぼす感作をいうや美方郡各渓谷を挙げ、一水一石善く此れを暗証し「但馬は牛畜の大学校なり」と語ったという伝記があります。その後も政府や県の同化政策や品種改良の要請を断り、郡外の血統のものは血統書に「非美方」の印を押した時期もありました。

明治中期には、農商務省および兵庫県により、但馬牛をより肉付きのよい外国種(ブラウン種)と交配させる試みが行われました。しかし伝統のつる牛を受け継ぐ美方郡の農家はかたくなにこれを拒否しました。結果的に国および県の方針によるブラウン種との交配にことごとく失敗し、その被害により 300個の但馬の家畜農家が倒産したとあります。

 
● トレサビリティの先駆け
   
但馬牛に関しては、そのルーツを記述した文献が多く残されており、牛籍、科学的根拠、地理的区分が各年代において細かく残されております。その中でも、但馬牛の中心地である美方郡農家の徹底した牛の血統管理は、知財保護(トレサビリティ)の先駆けといえます。
但馬のなかでも、現在の新温泉町および香美町にまたがる美方郡一体は、現在の但馬牛のルーツである蔓牛の閉鎖育種を永年守っている地域です。優秀な品種を維持するためには、他の地域の牛と血が混じらないよう管理することが大切ですが、その基礎となるのが、但馬地方で明治31(1898)年に始まる「牛籍簿」の作成でした。これは、全国でも早い時期に作られたため、現在では15世代前までさかのぼって系図をたどることができ、牛1頭ごとに生年月日や親の名を記し、よい血統だけを選別することが可能になりました。

その中でも“閉鎖育種”の伝統を100年以上受け継いて、地域的な純血を守っている美方郡と美方産但馬牛に対するこだわりは、畜産業者の間では根強く一般的になっております。

 
 
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